初めまして一乗寺、北白川のイタリアンバルのクチーナカメヤマです。
このページはクチーナカメヤマがどんな店でOpenするまでの道のりを詳しく知りたい方のためのページです。
文章長くなりますので、、、、、。
興味がある方のみご覧下さい。
まずどんなお店かの紹介です。
●お酒やイタリア料理、手作り料理、楽しい会話、ゆったりとした時間。
●ちゃんとした料理は食べたいけど、緊張するお店は苦手。
●お酒を飲みながらゆっくり楽しい時間を過ごしたい。
●コースだけじゃなくアラカルトで好きなものを自由に食べたい。
●既製品じゃなく手作りの安心出来るものが食べたい。
●イタリアンだけじゃなく幅広いメニューの中から好きなものを選びたい。
そんなお悩みございませんか?
クチーナカメヤマってどういう意味ってよく聞かれるんですけど、クチーナはイタリア語でキッチンです。
僕達夫婦が作りたいのは高級な料理じゃなくて、真心がこもった手作り料理です。味には妥協しないけど、気楽に使えるお店を目指しています。
実は僕は料理人でありながら緊張するレストランが苦手で、美味しいんだけどなんだか疲れてしまう、そんな経験が沢山あります。(^^;
だけど、たまにはちゃんとしたものも食べたい。苦手な癖にそんな時もあります。
だからレストランのようにしっかりと仕込みをしたものを、気楽に食べれるそんなお店があったら私みたいなお客さん喜ぶんじゃないかな〜と思い。こういうお店を作りました。
どうしてもちゃんとしたものを作ろうと思うと時間がかかってしまうんです。
基本的に1人で調理しているので少しお時間かかってしまう事もありますが、気楽なお店なので、どなたでもご来店下さい。
通っていただいている40代の女性のお客様にも、
このお店はこだわってる割にリラックスできるから楽でいいわ〜や、
学生のお客様には、たまにしか来れないけど贅沢しに来ました。
ご近所の奥様には子供がここのフライドチキン食べたがって、いつもお邪魔してすいません。
など、ありがたいお言葉沢山頂いています。
当店は、こだわってちゃんとしてるのに、子供の来店がダメだったり、学生さんを遠ざけるようなお店では無く、小さいお子さんから学生さん、お年寄りの方まで幅広くご来店頂けるのが有難いと言われる事も多いです。
イタリアンバルですけど、フランス料理屋や居酒屋、中華料理店など色々な所で僕が働いてきてますので、お店のメニューはバラエティに富んで豊富です。
メニューやコースは食べログに載ってますので、ご興味があるお客様はご覧下さい。
https://s.tabelog.com/kyoto/A2601/A260303/26024921/
お店の成り立ちはこの下に載せてます。
当店、席数が少ないので一気に満席になる事も多く、もちろんまだまだ暇な日もありますが、来店されてからお断りするのも申し訳無いので、来店前にお電話頂けると有り難いです。
あと定期的に更新しているお店のLINEに登録して頂けると、こちらからご予約取れるようになります。
LINEのIDは @354oozhaです。
http://nav.cx/fPOgZoh
このURLをタップまたはクリックすると、クチーナカメヤマ イタリアンバル&HMを友だち追加できます。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
ちょっぴり幸せになって帰って頂くそんなお店を目指していますので、
ちょっぴり幸せになりたい時にご来店下さい。
心よりお待ちしております。
では
このお店の成り立ちを紹介します。
もともと文章を書くのが好きで、自分の事を知ってもらおうと思い書きました。
かなり長いですが、僕が産まれてから京都にお店をだすまでの経緯を書いていきます。
お店を営業する上で、料理だけじゃなくどんな思いでお店をオープンしたかを知ってもらえればなと思っています。
ちなみに2014年11月9日openです
しばらくお付き合い頂けると有難いです。
僕は島根県の奥出雲、知る人ぞ知る木次乳業で有名な木次町に6人兄弟の5番目として生まれました。
5番目に産まれたんですが僕は双子なので末っ子でもあります。
僕が小さい時の家族構成は両親とおばあちゃんと、お兄ちゃん2人がいてお姉ちゃん2人がいて僕と弟の9人家族です^ ^
島根は都会に比べて兄弟が多い地域になるんですけど6人兄弟の友達は周りにもいなくて喋っても驚かれてましたね〜。
兄弟が多いので喧嘩などもしょっちゅうでしたけど、今思えば楽しい幼少期を過ごしてました。
やっぱりなんと言っても遊び相手に困る事がないんですよね。笑
僕は兄弟多い上に双子なので格闘ゲームをしてもコンピュータと戦うなんて事は滅多に無く、対戦相手は常に人間でした。
コンピュータと戦わないのでお互いにあまり強くなれなかったですけど、
負けたら本当に悔しいから何度も何度も繰り返し遊んで、負けが続くと喧嘩してました。笑。
それに自然も沢山あって、むしろ自然しか無いのですが、よく近くの川に魚釣りに行ってました。
お小遣いなんて本当に無かったですから、魚釣りのエサを買うお金も勿体無くて、
よく畑に行ってミミズをとって、竿が無いから竹を切って来て、糸をくくりつけて、釣りをしたりなんかもしてました。
その後で、お兄ちゃんに釣竿買ってもらったのでそれを大事に使ってましたね。
次にミミズじゃあんまり釣れないからどうしようと考えて、毎回エサを買うお小遣いも無いので、
エサがなくても釣れるルアーを買いに車で一時間くらい連れて行ってもらってました。
エサ釣りじゃないぶんなかなか釣れないんですけど、釣りには夢中で没頭してました^ ^
島根を出てからは釣りをする事は無くなったんですが、釣りは楽しいですね〜
とまあ、釣りの話は置いといて、、、。
僕が住んでる地域は木次町の中でもだいふ田舎の方で温泉小学校という小学校に通ってたんですけど、
小学生の頃の同級生は14人です。
全校生徒はたしか54人だったと思います。だから14人でも全学年で一番の人数の学年でした。
当時は全校生徒の名前を覚えてるレベルでみんなの事を知ってましたね♫
そんな田舎なので夏になると家の中にカブトムシが入って来たり、
蛍が入って来たり、畑には猿が軍団で作物を漁りにきたりしてましたね。
だから今でも猿はちょっと怖くて苦手です。笑
自動販売機まで2キロだったり、4キロくらい離れたコンビニは夜9時閉店だったり、
スーパーまで15キロあって夜8時閉店だったりと今思えば不便な土地になるんですけど、
都会には無いものが沢山詰まった、本当に田舎のいい環境でのびのび暮らしていたと思います。
なぜそんな所に産まれた僕が京都にお店を出すまでになったかをようやく書いていきます。
僕は小さい頃から料理が好きで幼稚園の頃の将来の夢はコックさんになりたいなでした。
それが小学生になっても中学生になっても高校生になっても変わる事は無く、
ずっと料理の世界で生きていくと子供ながらに決めていました。
でも家では当たり前にお母さんや、おばあちゃんがご飯を作るので、
小さい頃に男の僕は料理を作ったらダメなのかと思ってショックを受けてた時期がありまして、
その後、テレビを見て確か周富徳さんだったと思うんですけど、男の人が料理作ってる〜!!
って衝撃を受けて、えっ男も料理作っていいの??
ってテンションあがって喜んでた記憶が今でもありますね〜♫
そんな小さい頃から料理が好きな僕は、小学生5年生くらいの時から、
家で料理を家族のために作ってました。
料理を家族の為に作っていた理由は、料理が好きだからというのもあるんですけど、
小学生5年生の時に父親が癌で入院する事になり、
母親も付き添いでずっと病院に通ったり、泊まったりしていました。その秋に父親が亡くなったこともあり、
元々よく働く母親でしたが、今まで以上に夜遅くまで働いたりと家に帰って来る時間も遅くなっていました。
そうすると長男、次男はもう家を出ていましたので、お姉ちゃんと僕達兄弟はみんなで協力して、
ご飯を作ったり、洗濯したり家事を分担して生活していました。
よくある大家族の番組みたいですね。
もっぱら僕は料理の手伝いしかして無かったですけど。笑
その後、僕は夢である料理人になる為に京都に出て来るんですけど、
なんせお金っていうものがうちには無かったですから、高校生の時からどうやったら料理人になれるかを真剣に考えて、
お姉ちゃんに聞いてみると、60万あったら専門学校に行けるよ!
と聞いて、
よし、
じゃあ貯めようと。
そんな事で近くの(近くって言っても5キロぐらい離れた)旅館で高校生の夏休みや春休みなど、
働ける時にずっと働いてました。
そこで働いた時間がとても楽しくて、料理長や芝原さん、川角さん達料理人の方々に
料理の事や仕事の事や修行時代の話など沢山教わりながら働いてました。
料理長の修行時代はまかないが質素で、野菜の皮とか端っこなんかを料理して食べてたそうです。
ただ、週に一回お肉も沢山、野菜も沢山入ったカレーの日があったらしくてそれが食べたくて頑張ってたなんてお話も聞いたりしてました。
休みの日は映画館が今みたいに入れ替え制じゃないから、映画館に行ってはよく燃えよドラゴン観てたなんて話も。
そこで教わった事のひとつを今でも大事にしてるんですけど、料理人にできるサービスは盛り付けなんやって事です。
良くサービスで、量を増やしてあげたり、豪華にしたりするけど、その時は良いかもしれないけど、
次にお客さんが来た時に、前はサービスで豪華にしてたなんてこと
お客さんは知らないですから、いつも通りに出すとショボくなったって思うし、
そもそも少食の人に大盛りなんかは嫌がらせみたいになるし、
他の料理を食べたかったのにお腹一杯になって食べれなくなるなんてかわいそうやろ〜と。
けど盛り付けが綺麗で、なんでこんなに綺麗なんだー( *`ω´)って怒るお客さんはいないし、むしろみんな喜んでくれる。
だから料理人にできるサービスは盛り付けなんや。って言う話です。
うん。
当たり前だけど、盛り付け大事ですね!
せっかく美味しくても盛り付けぐちゃぐちゃだと食べる気無くなりますからね〜
そんなこんなで毎日ジュース奢ってもらったりして、本当に優しくしてもらってましたね>_<
時給は田舎なので600円だったんですけど、僕にとっては大金で、奨学金をもらいながら高校に通って、
お金をコツコツ貯めてと、卒業までに100万ちょっと貯めました。
基本的に学校が終わってから働く事は無かったので、春休みや夏休みや部活がない土日がメインでしたけど、
最長14日連勤したりして、高校生のバイトで月に最高12万円稼いだりしてましたから結構働いてましたね。笑
何がなんでも料理人になる事だけは決めてましたから、そのために働いてました。
こう言って書くと、
なんだかすごく頑張ってるように見えるかも知れませんが、当時も頑張ってる意識なんかは無く、
とりあえず不安で不安で仕方なかったから、出来ることだけでもやっておこうという感じです。
僕は中学生の頃なんかは何か理由を付けてよく部活をサボってましたし、勉強も学校でしかほとんどしてないですし、
出来るだけ勉強せずにテストで良い点取る方法をずっと考えてました。笑
それに家に帰ったら、ちょーグータラ人間です。
やると決めて三日坊主で終わる事も多かったりです。
まあ、だから料理人になるために必要だから働いてたんですね。
世の中結局お金が必要なんです(^^;
最初は島根の専門学校でもいいかななんて考えてたんですけど、
アルバイト先の料理長に絶対にレベルの高い関西で修行しろと言われて、
それで関西で5.6年修行したら帰ってくるなんて中途半端になるなよ。
最低でも10年くらいは働けよなんて言われてましたね。
そんなこんながあって、京都の大和学園調理師専門学校を知るんですけど、
なんと170万円ぐらいかかるんですよね。
えっ!60万じゃ全然無いじゃん!
ってなるんですけど、弟に負けたくない一心で勉強してたのが功を奏して、(授業中のみですが)、
(大体テストでは負けてたので点数すら聞かなかったですけど、友達が教えてくるっていう。笑)
運良く特待生に選んで頂き、授業料全額免除で専門学校に進む事が出来ました。
それでも授業料は全額免除ですけど、諸経費っていうのが料理の専門学校は沢山かかって、食材費だったり包丁代だったりですね。
それで貯めてたお金は結構無くなって、そもそも仕送りなんてものはあるはずもないですから、
アルバイト進学という制度を使って学校に通いながら夜は京都の○○屋さんの伊勢丹店でアルバイトをして、
○○屋さんの四条大宮にある寮に住ませて頂いてました。
平日の昼は学校に通い、その後アルバイトをして、土日は朝から晩まで働くという生活をしてました。
週に5、6で働いてましたね。それで休みの日は朝まで遊んでましたから、体は常に疲れてた記憶があります。笑
○○屋さんで働いて思ったのは都会ってこんなにお客さんが来るの〜!!
って事ですね
本当に衝撃でした。
島根のアルバイト時代のピークタイムがずっと続いてる感じです。
田舎から1人で出てきて京都の人口にも驚いて、街並みにも驚いて、ずっと上ばっかり見て歩いたりして、
神社仏閣に歩いてたら辿り着くなんて、島根では考えれなかったのにな〜
すごいなぁ〜すごいなぁ〜とワクワクしながら生活してました♫
そんな生活を送りながら京都調理師専門学校を卒業します。
この時小さい頃からの夢の調理師になるという夢は叶いました。
そのあと有名なホテルに入社しますが、もっと料理を勉強したいと思い、退社し、その後、ビストロで働いたり、
和食のレストランで働いたり、違う事をやってみようとコンビニで働いたり色々としてました。
この時期は小さい頃の夢が叶って、何のために働いてるのかを見失ってちょっと宙ぶらりんになってしまい、
色々やってはやめてを繰り返してしまう。ちょっと悪い時期ですね。
この環境を変えてもう一踏ん張り頑張ろうと決めて、小さい頃のもうひとつの夢だった神戸に住むための決断をします。
そのため京都調理師専門学校にもう一度伺い、神戸のフレンチレストランを紹介してもらいそこで働きました。
そこは神戸の有名レストラン100選の一つにも選ばれた事もあるレストランで、
だからと言ってものすごく厳しい訳では無かったんですけど、
そこで人生初めての挫折を経験します。笑
お店に入って3日で1人でデザートを担当しなくちゃならなくて、
自分の腕ではまだお客さんに出すレベルじゃ無いのに出さなきゃいけないという葛藤がありましたね。
もちろん先輩にも手伝ってもらったり、教えてもらったりするんですが、
一つ一つの工程の意味が経験不足でイマイチ理解できず、
出来上がりにバラツキがでてしまい、今まで料理で壁にぶつかった事が無かったので、だいぶ苦しみました。
そして精神的にやられると体力的にもやられて、ご飯が食べれなくなってしまい、睡眠もうなされてばかりで眠れない、
それでも頑張ろうと努力して、また疲れて、ミスを犯して、との繰り返しで
この時期、先輩に同じ事5回も聞いてたりするんですよ。聞いても聞いてもその場では覚えるけど、すぐに忘れてしまってました。
料理を作るときはすごく楽しいけど、作業量の多さに体も頭もついていけなくなり、
多分この時内臓がやられてたんだと思うんですけど、
毎日鼻血が30分とか1時間、長いときは2時間くらい出るようになってしまい、
精神的にも肉体的にもやられてまして、、
末期ですね。笑
このままではやばいなと思い辞めました。
辞め方も良くない辞め方をしたし、本当に申し訳ないことをしました。
その当時にもっと楽に考えて余裕を持って働いたり、体のメンテナンスをしっかりする事を勉強したり、
しっかり栄養と休養を取れば良かったのに、頑張ろうとしすぎて自滅してしまいました。
真面目すぎたんだと思います。
ただこれも言い訳で少なからず迷惑をかけた事は事実ですので、先輩には申し訳ないです。
当時はすいませんでした。
自分なりの反省は今後このような事を一切しない事なのかと考えて、それからは迷惑がかかる辞め方だけは絶対にしないと決めました。
まあ終わった事をを引きずっても仕方ないので、挫折を糧にいい経験をしたとして前向きにいきます!
ここら辺から自分のペースで働ける環境を作りたく、将来(31歳)までにお店を持つ事を目標にしました。
なんで31歳かというと、占いで何かを始めるのに1番いい時期って書いてあったからという理由だけですが、、笑
その後神戸の中華屋さんで昼を働き、夜は手作り料理のの居酒屋さんで長い事働きました。
そしてどちらも高級店では無く大衆的なお店でしたので、お客さんがレストランと比べるととても多く、驚きました。
そこで将来お店を出すとしたら、限られたお客様に出す料理じゃなくどんな方にも食べてもらえるものを、ちゃんとしっかり仕込みをして出したいと考えてました。
働かせてもらったどちらの店でも色々と任せてもらえたのですごく貴重な経験が出来ましたね。
特に中華料理屋さんでは本当の家族のように仲良くしてもらって、
僕の傷付いた心を癒してもらい、仕込みなどもほとんど任せてもらうことによって
作業のスピードも速くなり、中華料理は味を一瞬で決める料理ですから、とても勉強になりましたね♫
それに1人で色々と出来るようになって来ると、将来自分のお店を本当に持てるんじゃないかと自信にもなりました。
個人店だったので皆さんが本当に優しく、楽しく、気楽にお仕事をされていて今までの上下関係が目立つような職場とは違い、
こんな風なお店が出来たら、一生楽しいだろうな〜なんて思ってました^ ^
今でも蒸し鶏だったり海老マヨだったり神戸牛チャーハンだったりがお客さんにとても好評で
神戸に住んだのはこのお店に来るためだったんじゃないかと思ったりもしてます。^ ^
それに加えて某有名人の方に料理を何度も作れた事が僕の一つの自慢にもなっています^ ^
一流と呼ばれる人に料理を食べてもらえる経験って僕にとっては大きかったですね♫
美味しいって言ってもらえると、ある程度は通用するんだなぁ〜と自信にもなりました。
この働いてる間にイタリアに2週間程、本場のイタリア料理を知りたくて旅行に行ってます。
もし料理に魅了されるようならイタリアで修行しようかとも思ってました。
いざ行ってみると観光メインになってしまいましたが、笑。本物を知れた事が凄くいい経験になりました。
思ってたより適当で真剣に作ってるというより、遊んでる感じ。
味も美味しいお店もあるんだけど、大味な料理が多く、日本の方がレベル高いんじゃないかと思いました。
ただお客さんと友達みたいに接してたり、楽しんで料理作ってたり、働いてないようで働いてるあの感じがすごく好きで、
あ〜日本人は真面目に働きすぎだなとカルチャーショックを受けました。
自分のお店を出す時は日本の料理みたいにちゃんとしてるけど、イタリアみたいに遊んでるみたいなお店にしようと思いましたね♫
その後26、7歳の時に夜に働いていた居酒屋で一緒に働いた友達の中国の方とお店をオープンする事になり、料理長をやる事に。
地鶏と野菜とトマトがメインの創作居酒屋を一から友達と協力して作りました。
この時メニューを考えたりお店の運営の勉強をしたりと色々と試行錯誤出来たのが良かったですね。
オープンから最初の2ヶ月は売り上げ的にもやばかったんですが、絶対にうまくいくとなんだか訳のわからない自信があって、
3ヶ月目から黒字に転換し、その後浮き沈みはありながらもうまいこといきました。
40席くらいあるお店を経営するのは結構大変で、経営学やらなんやら今まで溜め込んできた知識を総動員しながら、協力して営業してました。
そこで働いた時間は料理長として一からメニューを全部作る経験と、お店の運営に少し携わってましたので飲食店の経営の勉強が出来てとても貴重な経験になりました。
ただ美味しい料理を作るだけじゃなく、お客さんが食べてみたい料理を考えたり、お客さんにお店の事を知ってもらったり、また行きたいお店ってどんなお店なのか、なんて事をずっとずっと考えてましたね。
料理人は腕さえあれば良いけど、経営者には伝えるチカラが必要で、お客さんは自分達のお店の事なんてなんにも知らないって事がよく分かりました。笑。
そういう経験があっての今ですから、自分のお店が続いてるのも中国の友達のおかげでもあります。
あの時、26才の誕生日に○君が4年ぶりぐらいに電話をかけてくれなければ、、
誕生日覚えててくれたの〜!と喜んで電話をとると、いきなり
亀!店やるで!!
と開口一番に告げられた衝撃はなかなかのもので。笑
えっ!
ちょっと何言ってんの!?
お店する?
まじで!!
いや無理やって!!
そんな簡単じゃないで!
とりあえず話をしよう!
から始まって9ヶ月も経たないうちに新しいお店が出来上がってました。
ちなみに誕生日に電話をかけてきたのは偶然で、ちっとも誕生日とは関係ありませんでした^^;
偶然にしては出来過ぎな偶然でしたが、
3年で7.8割潰れるという飲食店を一緒に居酒屋で働いた、ただのアルバイトに任せてしまう○君。
下手したら1000万円以上のお金が半年で無くなってしまう可能性もあるのに。
僕にとってはノーリスクのチャンス!
ただチャンスをくれた○君を犠牲にする事は絶対にしたく無かったので、お店をやると決めた時には、
ここだけの話、
最悪自分のお店用に貯めたお金を注ぎ込んででも成功させる気持ちでした。
一緒に働いてくれた友達の助けもあって実際は全くその必要も無かったんですけどね♫
ちなみに五年経った今でもそのお店は神戸で繁盛しています^ ^
お店が運良くテレビでも紹介されたりと軌道に乗った時に、次は自分のお店をオープンするために辞めました。
その後お金をもう少し貯めるため、以前働いてた中華屋さんでまたお世話になりながら、夜はイタリアンバルで働きました。
その働いたオープンキッチンのイタリアンバルのスタイルが自分に合ってると感じ、こういうバルベースのお店を自分のお店にしようと決めました。
イタリアンとかフランス料理はいい店になればなるほどコース主体で、敷居が高いと僕は思っていて、
もちろんそういうお店を否定してるわけではなく、ちゃんとした料理を気軽に食べれるとこから料理の本当の美味しさを知ってもらって
将来的に個人店のような頑張ってるレストランに通う人が増えるような橋渡しが出来たら、料理業界ももっと潤うんじゃないかなと考えています。
今の時代、高級店と低価格のお店の2極化が進んでいて、
低価格帯のお客さんがちゃんとしたパスタを食べずにパスタってこんなものみたいな感じで終わってほしくないんですよね。
ちゃんと作った料理の美味しさをまず知ってもらいたい。
特別な料理じゃなく身近な料理もきちんと作ればその味は大きく変わるんです。
まあ偉そうなこと言って、そんなたいした料理は作れませんが、、。^^;
でも少しでも町に個人店の個性のあるお店が増えたらもっと魅力的な町になっていくと思ってます。
イタリアンって美味しいな!
次はあのイタリアンに行ってみよう!
なんてなったらみんなが潤いますからね♫
という事で、かなり長くなりましたが、僕の自己紹介という事で。
その後はカクカクシカジカで京都でお店やってます。
と、こんな僕がクチーナカメヤマを作りました。
長い文章最後まで読んで頂きありがとうございます。
最後にお店の紹介として
高級料理じゃないけど、味には妥協せず、手間暇かけた真心がこもったような料理をお出しできればと思っております。
100回通える気楽なイタリアンバルとして、ちょっぴり幸せになるそんなお時間を。
本日もお客様のご来店
心よりお待ちしております。